アベノマスクって、笑ってませんか?
自粛について
『コロナ疲れ』『自粛疲れ』という新語が出てきましたね。
自粛しすぎると経済が死んでしまう。。というのは確かに事実でしょう。
ただ、いまの『かかっても8割は軽症ですむから大丈夫じゃないか。。』という空気は危険だなと思っています。
いやいや、あんた、この前まで、社会が停滞しているだの、風評被害をやめようだの、落としどころは集団免疫だの。。と言っていたじゃないか。。と思われるかもしれません。
それも事実です。
今、『大丈夫じゃないか』という空気が怖いのは、何の対策もしないまま、いわば丸腰で、火中の栗を拾いにいくようなことになっていないかということです。
マスクをしています。手洗い、うがい、アルコール消毒をしています。。
そういわれるかもしれませんが、ある程度予防はできても、完璧ではないことは明らかです。
外からの侵入をいかに防ごうとしても、十分でないことは事実としてとらえましょう。
また、今回の新型コロナウイルスに対する特効薬もまだ見つかっていないことも事実です。
だから、すべて自粛したほうがよい。。とも思っていません。
いままでのストーリーはこれまでの医療と人間がたどって来た道をなぞっているように思えるのです。
いわゆる現代医療が発達していなかった時代、感染症や病は祈りや呪術に頼ったことがありました。このうち、感染症は公衆衛生の重要性に気付いた先人がいたり、細菌やウイルスを発見し、抗生剤をはじめとする薬で劇的に治すことが出来るようになりました。病については、いろいろ思うところがありますが、少なくとも現代医学において、なぜその症状が起きているのか、症状に対しての現象論、対症療法は進んできたように思えます。
今回も、新型コロナウイルスという感染症に対して、どういうウイルスなのか、どういう公衆衛生的対応をすればいいのか、どういう薬が効果があるのか、世界中の研究者が必死にがんばってくれています。
もう一つ、医療と市民との関係でいうと、これまでは、いわゆるパターナリズム(父権主義)といわれる、『病気の事は医者に任せておけばいい』というものになってしまいました。
これについても、健康、病気についてどこまで自分で考えているでしょうか?
今回の阪神藤波選手のように、いつもと味覚が違う。。というちょっとした感覚に気付けるでしょうか。少なくとも毎日自分の便や尿に気を使っているでしょうか?
あなたは何をもって、『自分は健康だ』『自分は新コロにはかからない』と自信を持って言えるのでしょうか?
この状況で、『コロナ疲れ』だ『自粛疲れ』だと無責任に行動する事は非常に危険だと思っています。
どうすればいいのでしょう。
私の考えるキーワードは
『人間力への回帰』『remember your humanity』
です。
もっと人間の抵抗力であったり、決断力であったり、相手や社会を思いやる心であったり、未来を予測する力であったり、そんな人間力を信じてみてもいいのではないかと思うのです。
残念ながら、いまの医学では人間の抵抗力や免疫力を見える化できません。
ただ、そのなかでも、ビタミンD濃度はその濃度と感染に逆相関がみられるという論文があります。(つまり、ビタミンDが高ければ感染しにくい)
関連がどこまであるかは未知数ですが、抗酸化力であったり、免疫を司るリンパ球や好中球も測定は可能です。
いかにウイルスをやっつけるか、あるいは、いかに取り込まないようにするか。。という視点から、いかに自分の内面の力を高めるかに考え方をシフトする時期が来ていると考えます。
旬なものを食べたり、食物繊維をとり、腸内環境を整えたり、タンパク質をしっかりとったり、ビタミン補給したりという、よりポジティブな生活はもちろん素晴らしいですが、まずは夜更かしをしない、アルコールを飲み過ぎてビタミンや亜鉛を無駄遣いしない、タバコを吸わないなど、避けるべきものからやってみるといいのかもしれません。
そして、ご自身のビタミンD濃度を一度計ってみて下さい。
そうやって予防しても、感染するかもしれません。感染して症状がでれば、もちろん自宅で安静、あるいは重症であれば病院に行きましょう。その場合も、自宅安静で十分なのか、病院受診すべきなのか、自分と向き合って自分で判断しなければなりません。闇雲に病院受診をすると医療崩壊につながります。
感染しても無症状というかたもおられるでしょう。
あなたがどういう立場にいるかで、どういう行動をとるべきか、これも自分で考えなくてはなりません。
わたしはビタミンB,C,D、亜鉛をとりつつ、血中ビタミンDも高めを維持しています。また、気力も充実しています。なので、感染しないだろうと考えています。しかし、感染しているかもしれないと考えて、アメリカからの帰国後2週間弱自宅待機しました。
だれかに行動指針を提示されて、それに従うのではなく、また、一律に個人の行動を批判するのではなく、一人一人が考えるべきだと思います。
卒業おめでとうございます。
3月といえば、やはり卒業ですね。
わたしの子供もこの春に中学校と小学校、そして幼稚園を卒業します。
学校を卒業されるみなさん、そして支えて来られたご家族のみなさん、卒業おめでとうございます。
新型コロナウイルスによる騒動で、長い休校期間に入ってしまい、卒業の実感がわきづらいかもしれませんが、みなさんだけに許された経験だと思って前向きにとらえてみてください。
さて、学校生活はいかがでしたか?
みなさんが卒業した、学校って一体なんだったのでしょう?
そして、次に進学するのであれば、そこでは何を学ぶのでしょう。
7歳の年になったから家の近くの小学校に行き、毎日の宿題に取り組みながら、中学校に進み、そして、高校、大学。学年がすすむにつれ、出来るだけ成績のよい学校を目指して日々勉強へのプレッシャーも大きくなってきたはずです。
これまではいかに正しい答えを導きだせるかが、評価の対象でした。
しかし、大学を卒業し、社会人となると、急に正しい答えが評価の対象ではなくなってしまいます。ともすると、正しい答えもあるのかないのかさえ、わからなくなってしまいます。
戦後、あるいは、高度成長の時代は拡大する事こそ正しい答えであり、それを社会が目指していましたが、多様な価値観が現れてきた現在、正しい答えを見つけることが難しくなっているのは事実です。
そのような時代にみなさんは社会人への準備期間を過ごしているのです。
そのような社会でも幸せに暮らしていけるように、年齢に応じたカリキュラムが組まれていれば、いまの社会でも十分対応していけるのでしょうが、残念ながら、まだまだ十分とは言えません。
昨年、東京大学の入学式で上野ちずこさんが「がんばっても公正に報われない社会が待っている」と話をされたとニュースになったことを覚えておられる方がおられるでしょうか。
けして、東大だけの問題ではありません。
いまを生きる私たちひとりひとりに課された問題なのです。
正しい答えを見つけるトレーニングをしてきた私たちが、社会に出たとたん突然答えのない問題に向き合うことになります。
これまでやってきた努力の方法では対応出来ないかもしれないのです。
正しい答えのない問題に対して、だれかが問題を解決してくれるまで待つという選択枝もありますし、ただただ目を背けるという選択肢もありますが、わたしは、その問題に対して自分なりに情報をあつめて、自分に出来る事をひとつひとつやってみたいと思っています。その結果が正しかったかどうかは実は問題ではなく、行動して何かしらの結果を得た事、そしてそれを次にどう活かそうとしているかこそが尊いことだと思うのです。
今回の新型コロナウイルス問題も社会がどうすればいいのか、万人に当てはまるような答えはどこにもありません。個人個人が自分の置かれた環境でどのように立ち振る舞うべきなのかを考えて行動しなくてはなりません。そして、考えて行動する為には、必要な知識や技術を蓄えておかねばなりません。そのために勉強しておくのです。
いまのカリキュラムはやっても無駄なのかというとそんなことはありません。答えのある問題にちゃんと答えられるからこそ、この問題には答えがないということがわかるのです。
人生に無駄なことはひとつもないと考えています。
卒業生のみなさん、ひとつの区切りがつきましたね。明るい未来にむかってまた歩いていきましょう。