新年のご挨拶
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
一番下の娘が今年12歳になります。干支を一回りしたことになります。
娘が生まれておよそ一ヶ月後に開業したので、クリニック自体も12年です。
この12年在宅医療を先導してこられた先輩方を追いかけてガムシャラに走ってきたように思えます。
同じことをやるのはつまらないと、自分にしかできないことは何か?を探し回った12年とも言えるかもしれません。
私も今年55歳。次の12年後は67歳です。43歳から55歳というアブラの乗った時期を過ぎ、次の世代へ伝えていく時期に入るのかもしれません。
オンリーワンのクリニックになる。
誰にもできないことをやる。
などといった『自分が、自分が』という感覚が少し薄れてきたように思えます。
船塚クリニックが
困った時に相談できるクリニック、
元気になれるクリニック、
としてこれからも歩んでいけるようにできることはなんだろうかと考えています。
おそらく私一人ではできないでしょう。たくさんの方の支えをいただくことになると思います。
そんな皆さんへの感謝の心を持ちながら、次のステージに進んで行こうと思っています。
2025年、そして、これからの12年、よろしくお願いいたします。
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おはようございます。
朝、娘を学校に送っていき、その帰りにとある飲食店に行きました。
とても元気の良い店主で、大きな声が飛び交っています。
と書くと、店主の元気に私も元気をもらえた。なんてなりそうですが、正直、ちょっと引きました。
私が期待しているのは、元気ではなく、美味しいご飯なのです。
元気がよすぎて、ご飯に関心が薄いんじゃないかとさえ思ってしまいます。
実際のご飯は美味しくないわけではなかったのですが、ご飯のことよりも店主の元気のことばかりが頭のなかを巡ってしまいます。
言ってみれば、美味しいご飯を求めて行ったのに、元気を押し付けられたみたいなものです。
言葉足らずですが、
何かを求めているときに、そうでないものが与えられた時、必ずしも全員が満足するわけではない
ということが頭に浮かびました。
「元気がいい」というのは一般的にはいいことだと考えられています。少なくともその店主、お店にとっては一番の価値観なのでしょう。
しかし、顧客も同じ価値観かというと時と場合によります。
倫理法人会発行の万人幸福の栞 第4条に『人は鏡、万象は我が師』万象我師という項目があります。
このお店の出来事を振り返り、自分のことを振り返ってみました。
先日、やる気が出ないという方が外来にお見えになりました。
うちが栄養療法を行っているということを聞きつけて、遠方からお見えになったのです。
検査を行い、確かに蛋白不足、鉄や亜鉛といったミネラル不足があります。
それを補充したらいいかというと、それでは片手落ちのような気がするのです。
それらが不足してしまう原因についてケアしなくては遅かれ早かれ同じことを繰り返してしまうし、そもそもやる気が出ない原因は栄養不足ではなく、そちらが直接影響しているかもしれません。
お話を聞き、検査結果を見ると、栄養不足の原因が見えてきます。しかし、それは、本人や家族は気づいていません。
そして本人や家族は栄養不足の有無に意識が集中しています。
実際、外来で何をしているかというと、何が足りない、だからこれを食べましょう、飲みましょう。ではなく、その奥に隠れているであろう問題についてカウンセリングやコーチングの技法を用いてご自身が変わるきっかけを作ろうとしています。
けど、これって、美味しいご飯を食べに行ったのに、元気のよさを押し付けられたお店と同じではないかと思ったのです。
私にとってはいいことをした、いい時間だったと思える時間でも、相手にとっては必ずしもそうではない、そもそもそんな話は求めていない。となっている可能性があります。
どうすればいいか。。
やはりそれを求めている人に、それを提供すること、それに尽きるのかもしれません。
それを求めている人に来てもらうためには、
私たちがそれを行なっていることを伝え、知ってもらわなくてはそれは実現しません。
毎日少し早起きして、自分と向き合う時間を作るようになり、ちょっと自分がなぜモヤモヤするのかキリが薄くなってきている気がしています。
さて、そんな気づきのシェア会を11月21日(木)13時から行おうと思っています。お時間のある方はぜひご参加ください。
ふくちゃんに教わったこと
うちには女の子のはなちゃんと男の子のふくちゃんというわんこがいます。
はなちゃんはちょっと太っててあまり散歩は好きではありません。
一方、ふくちゃんはスマートで、いつまででも走り回っています。
一人で両方のリードを握るとどちらかが引っ張られるので、できるだけ二人で散歩します。
今日は私がふくちゃんを担当しました。
いつもに増してウロウロしています。
一度におったところも、また引き返してクンクン。
いつものルートを終えて、さて帰宅か。。と思ったら、別のルートを見つけ、またクンクン。
気になる匂いがあったら衝動的に走っていくんでしょうね。
そして、お、これは自分じゃないな、強いかな、弱いかな。よーし、自分も印をつけちゃおう。
一旦気が済むんだけど、しばらくするとそのことを忘れて、また同じことを繰り返しちゃう。
別の方向からやってきたら、結局同じ匂いなんだけど、見える景色が違うものだから、また同じことをやっちゃう。
そんなふくちゃんをみながら、昨日はこう感じてました。
「この一瞬、一瞬を楽しんでるんだな」
ところが今日は違ったんです。
「なぜ同じことを繰り返してしまうんだろう」
私たちの身の周りでは、毎日毎日、一刻一刻とさまざまなことが起こります。
その出来事に対してどんな感情を抱くのでしょうか。
同じものを見ていても、どう感じるかは人それぞれのように、自分なりのメガネを通していい悪いの判断を下しています。
「いい」ことなら気持ちよく過ごせるのかもしれませんが、「悪い」出来事だったら嫌な感情を持って過ごします。
その出来事は人によっては「いい」と感じる出来事であっても、本人にとっては悪いことのように思っている場合もあります。
そんな嫌な感情を打ち消すために、イライラして人にあたったりしていないでしょうか。あるいは、嫌な感情を持つたびに、自分はダメな人間だと思い込んでいないでしょうか。
同じところをグルグル回るふくちゃんを見て、足が棒のようになりながらも、大切なことを教えてくれてありがとう。大変だけど、また明日も一緒に散歩しようね。そう心に誓ったのでした。
寿司屋でお肉が出てきたらどう思います?
自分が本当にやりたいことは何かを考えている。
関わる相手が自分らしく人生を楽しむサポートをしたいと思っている。
それは決して薬を処方することではない。
傾聴と言われる、話を聞くだけでもない。
それぞれが自分の価値観で生きているのだけど、その価値観に縛られて苦しい思いをしているとすれば、価値観という眼鏡を取り替えてはどうかと思う。
その眼鏡を取り替えるサポートをしたい。
それは栄養不足が原因でかけてしまっている眼鏡かもしれない。
あるいは、両親に準備された眼鏡をそのままかけ続けているだけかもしれない。
育ってきた環境で自分でかけやすいと思った眼鏡をそのままかけ続けているのかもしれない。
まずは眼鏡をかけているんだと気づいてもらうこと、
そして、付け替えてみたいと思うこと、
ああ、そんな眼鏡があるんだと知ってもらうこと
そんな関わりをしたい。
そんな仕事、あるいは、そんな職業をなんというのかよくわからないけど、少なくとも医者ではないのかもしれない。
医者というのは病気の人に薬を出すもの。と考えている人に、薬ではなく、考え方を処方されたら、きっと違和感を感じるでしょう。
そして、日本の医療は保険が効くので、どこも同じで、安く済むと思われています。
できるだけ待ち時間がなく、自分が楽になる薬、あるいは、自分が欲しい薬を出して欲しいという人に、じっくり話を聞き、薬ではなく、心の持ちようを整えましょうといってもなかなか届かないでしょう。
回転寿司でパッと終わらせたいと思ってお寿司やさんに入ったら、焼肉屋だった。。そんな感じかもしれません。
その焼肉屋さんはいい肉をゆっくり食べてほしいと座席も広く取り、タレもこだわり、薬味も色々準備しているのに、そもそもお客がそれを求めているわけではなければ、無駄な努力というものです。
もちろんそこに入ったお客さんが悪いわけでもありません。そのお店がそういう焼肉屋であることを知らされていなかっただけのことです。
大事なのは、焼肉屋さんが、自分ところはこんなお店ですよ。としっかり告知することなのです。そういうサービスを求める人に来てもらって、そんな人たちに応える。そして満足してもらう。そこで初めて、顧客もお店も満足を得るんだと思います。
うちの商品は在宅医療と外来診療です。
在宅医療はちゃんと寿司を出します。価格は保険で決まっているので、どこも同じです。
よその寿司はよくわかりませんが、その寿司の質を高めようと努力しています。
それは中で働くスタッフのやりがいにも通じるからです。
外来診療は寿司ではなく、焼肉を出しているかもしれません。
これまでは寿司を求める人に、寿司も美味しいけど、焼肉はもっと美味しいですよ。食べてみませんか?という方針でした。
けれど、もしかすると、それは余計なお世話だったのかもしれません。
焼肉を食べたい。そう思う人に、できるだけ美味しい焼肉を食べてもらえるように環境を整えていきたい。そう思っています。
自分のサービスとはなんだろう。
高級寿司店が高級寿司店でいられるために必要なことってなんだろう。
ねたのよさ、シャリのよさ、雰囲気のよさ、接客のよさは必要だと思う。
立地の良さはあまり関係ないのかも。
辺鄙なところにあっても、素晴らしいお寿司と雰囲気、接客があればよさそう。
値段は。。
おそらく高級寿司店であるためにはお高い価格であることが必要なんじゃないかな。と思う。
『お金に対する心理的なブロック』にかかって、できるだけ安くと提供しようとしたら、おそらくお店自体が続けていけなくなる。
安く提供している。ということは、提供するサービスについても、どこかで手を抜いてしまいそうになる。雰囲気や接客も、安く提供しているから、これくらいは我慢してもらおう、そんな気持ちがスタッフに蔓延してしまうかもしれない。
高い価格を提示するのに大切なのは、たくさんお金を稼いで溜め込むことではなく、それだけの価値を提供しようと自らに課すこと、そして、利益をどのように使おうかと決めることなんじゃないかなと思う。
もしかすると、美味しい魚を提供してくれる漁師さんに還元しようとするかもしれないし、海洋環境の改善に寄附するかもしれない、いつも来てくださるお客さんに、より美味しい魚を提供したいとさらに腕を磨くためにお金を使うかもしれない、あるいは、高いけれどなかなか手に入らないような魚の仕入れに使うかもしれない、スタッフの満足度が上がれば、お客さんへの対応がもっとよくなるかもと、スタッフのために使うかもしれない。
どのように利益を出すかというより、その使い方に心を注ぐと、それがお寿司や店の雰囲気や、接客に現れるんじゃないかなと思う。
高級寿司店の反対の回転寿司が悪いわけではない。美味しいお寿司をできるだけ安く提供するというサービスも必要だと思う。
高級寿司店をやりたいと思って、そういうサービスを提供しようとしているのに、回転寿司の価格で出そうとすると、続けることはできない。
自分のやりたいこと、自分のできることがどういうサービスなのか自覚すること、そして、覚悟を持つことが大事だと思ってる。
傷んだ梨
うちの冷蔵庫の野菜室に初秋にいただいた梨がある。
僕は大好きだけど、皮を剥くのが面倒でいつまでもそこに転がっている。
冷蔵ルームならずっと鎮座したままなのだけど、うちの野菜室は引き出し式なので、開けるたびにゴロゴロしている。
そうこうしてるうちに、一部分が変色してきた。
開けるたびに転がり、周りの野菜にぶつかった結果、いたんでしまったんだろうと思っていた。
それでもやはり剥くのは面倒だ。
日に日に変色の範囲が広がっている。とはいえ、変色していないところは美味しく食べれそう。変色した直後は8割くらいは食べれるかな。。と思っていた。
11月になり、冷蔵庫の片付けもしたいなという気持ちになったので、いよいよその梨に手を伸ばした。
なんと、表面上問題なさそうに見えていたところも、皮の下の一部を残して、薄い飴色に変色しているではないか。
結局、8割の外観は綺麗そうに見えていたが、内面は100%傷んでた。
それを見ながら、もったいないことをしたなと思うと同時に、外見は良くても内面は傷んでいるということは会社の中でも起きていることだなと思った。
外からも、内面も乱れていない状態。
外は乱れていないけれど、内面は乱れている状態。
外は乱れているけど、内面は乱れていない状態。
外も内も乱れている状態。
外も、内も乱れていない状態をキープできるのが最高。きっと業績も良く、働く人も気持ちよく毎日を過ごしていると思う。
外も内も乱れている状態だと、瀕死の状態。
もしかすると、表面を取り繕おうとしたり、問題に目を向けておらず、それに気づいていないかもしれない。
多くの企業はこの両極端の間にいる。
自分の会社は外は良いけど、内面が乱れていると感じているとすれば、実は外の問題が見えていないだけかもしれない。内部にいると、なかなか外からどう見えるかは気づきにくい。
外部からみると、すでに外見上乱れているのに、経営者が気づいていないということはよくある。
外は乱れているけど、内部は乱れていないと思うとすれば、その外をなんとかしようとしがちだけれど、実は内部も乱れていると思った方がいい。やはり身内のことは気づきにくいから。。外のことばかりに気を取られたり、あるいは、そこは目をつむっておこう。。と向き合わないでいると、いつの間にか内面全体が乱れていってしまう。
自分の会社を客観的に判断してみる。
外からはどう見えるのか、
内面は乱れていないのか、
問題がないように見えるのは、本当にないのか、単に気づいていないだけなのか
私たちは見たいものしか見えないし、見ようとしなければ見えないという前提を肝に銘じておく必要がある。
自戒の念を込めて、せっかくの梨にお別れしました。
凹むことがあったから気づけたこと
つい数日前、
伝えたかったことが伝わっていなかったことが後になって判明して、凹んだ。
という投稿をした。
『凹んだ』とか、『後悔してる』って投稿すると、多かれ少なかれ『大丈夫ですよ』、『こうしたらいいですよ』という反応をいただく。
振り返ってみると、自分もそうだったかもしれない。
誰かの投稿を見た時に、こうすればいい、とか、そんなこと視点の違いだから気にしなくていい。。なんてつい、アドバイスしたくなっていた。いや、もしかすると、今でもそうかもしれない。
しかし、自分の場合は「凹んだ」とか「後悔してる」って公に出してる時は、すでに問題が解決していて、その時どうすればよかったのか自分で腑に落ちていたり、あるいは、その不快な感情から何かに気づいていたりしている。
かといって、善意で反応してくださっているのは承知の介なので、無碍に冷たい返しもできないし、誰にも相手にされなくなっちゃうんじゃないかっていうおそれも心のどこかにある。
まあ、今回のうまく伝わっていなかった。という投稿には、「こうしたらいいですよ」「大丈夫ですよ」というリアクションがなかったので、さほどモヤモヤしたものはなかったので、ちょっと胸を撫で下ろしている。
今回の『伝わらなかった問題』については、一つの言葉が相手の心の状態でそうも受け取りが変わるのか、というのに気づかせてくれたし、アドバイスでは人の心はそう変わらないということも再認識できた。
人を変えることはできないけど、愛を持ってその人と繋がりたいと思うことはできる。
人を変えれる自分になりたいとは思わないけど、愛を持ってその人と繋がりたいという自分にはなりたい。
人に影響力を持つ自分に喜びを感じるのではなく、関わる人が自分と関わり、何かに気づき、幸せを実感することを喜ぶ自分になりたい。
伝える技術を身に付けたいというよりも、技術の如何ではなく、技術はなくても伝わるくらいの愛を持ちたい。
そう気づかせてくれた一件でした。