『看取り』の講演会について

今週末の『看取りについて』のお話は伝えたいことは固まっているのですが、どのようなストーリーにするかを思案中です。

『看取り』というと最期の下顎呼吸等のいよいよという状態であったり、死亡確認やエンゼルケアそのものをイメージされるかもしれませんが、やはり本来はいつかは訪れる『死』にむけて、医師としてご縁をいただいたその時からが『看取り』の行為だと思っています。

『ご臨終です』という言の葉をご本人、ご家族におかけするとき、心から『この一生をごくろうさまでした。』『ゆっくりお休みください』と言えるための準備期間だと思うし、ご家族にとっても、そのかたを亡くされたあと、新たな時を刻んでいくために必要な期間だと思うのです。

その期間をしっかりやれていないと、実際心臓がとまったときに、それが予想されていたことであっても慌ててしまうし、『死』が忌むべきもの、怖いものになってしまうと思うのです。

また、ご本人にとっても、『死』を意識してはじめて、それまでの残された時間に真剣に向き合うことができるかたが多いような気がします。それを支えるわれわれも、ご本人と同様にその時間がその方にとっていかに重要か、どう過ごしたいと思っているかに思いを馳せなければなりません。

『看取る』ということはそのかたの人生の最終章を伴走させていただくことにほかなりません。決してゴールの横に立っていて、テープを切るのを見守ることではありません。

施設に入所しているかたの看取りをさせていただくこともありますが、まわりをみてみると、その最終章の伴走者が私一人だったということが少なくありません。つまり、「いつ急変してもおかしくない」「いつお別れしても後悔しないように、頻回に声をかけてあげたり、手をにぎってあげたり、自分にできることをしてあげてくださいね」と伝えても、なかなか伝わらないのです。

『死』に直面することが怖いのでしょうか。それは医師のすべきことと考えているのでしょうか。

昔の日本は自宅で亡くなることが大多数でした。治る見込みがなくなったら、自宅で家族とともに療養し、家族に見守られ息を引き取っていました。つまり、家族が人生の最終章を伴走していたのです。

いまの時代、家族構成の変化、社会情勢の変化により、なかなか自宅で最期を迎えられない時代になりました。その受け皿になるのが病院であり、施設であると思うのです。

国民の意識調査をみると、理想の死に場所は自宅だけど、現実的には病院。。となっています。
そこには問題点が二つあります。

現在は病院でお亡くなりになるかたが多いのですが、やはり自宅で死にたいと思っておられるかたが多いということ。
つまり、病院での最期の過ごし方に満足出来ていないということなのかもしれません。
ただ、いまは国の方針で病院で最期を迎えるということはあまりできなくなってきています。病院がそこの満足度をあげて、『最期は病院で迎えたい』と思えるソフトを作ろうとするかどうかは難しい問題です。

確かなのは、施設の将来です。
理想の死に場所は自宅だけど、現実的に施設で亡くなる。。という割合がまだまだ低いのです。
つまり自宅で最期を迎えるように、施設でも穏やかに最期を迎えたい、、とまではなっていないのです。

家族として迎え入れて、家族としてともに生活し、ともに笑い、ともに泣き、そして家族として送り出してあげたい、そんな施設が増えるといいなと思っています。

そんな『看取り』の話をさせていただこうと思っています。

お時間がありましたら、3月16日15時より宮崎市佐土原総合分化センターにお越しください。
お問い合わせは佐土原地区地域包括支援センター
sd-houkatsu@my-shakyo.jpまでよろしく御願い致します。